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代表橋本光ヨーガ便り:ヨーガ50年回想記;偉大なるヨギの教え【後編】**********沈黙マウナと凝視ダルシャンの教え、沖正弘先生の思い出
2022-09-14 13:30:58
皆様、今回のヨーガ便りは前回に続く後半です。お楽しみください。
・・・
先生は部屋の片隅で原稿を書いておられました。
少し待たされました。2分ほどしましたらやにわに先生はクルッと
回転椅子に座ったまま、こちらに向き直られ私に向かったところでピタリと
椅子を止められました。
そしてそれからはまばたき一つせずに私をじっと凝視され始めたのです。
1分たち2分ぐらい経ってもまだ一言も何も仰らずに時間は経っていきました。
沈黙と凝視は続きました。
優しくも厳しくもある静かな澄んだ先生の圧倒的な眼光に本当に身の引き締まる思いをいたしました。
多分3~4分経ったでしょうか、先生はついに一言、質問はあるか?
と尋ねられましたが頭が真っ白になったその時はすでに質問したいことはどこかへ全て飛んで行ってしまい
何も質問は出て来ませんでした。
道場生活の感想を聞かれることもなく、
帰宅後の注意の話もなく、
また来なさいとの言葉もなく最後の言葉は
帰って良し!!️の一言でした。
私はお礼の言葉を申し上げ思い出深い道場
を後にしてバスで三島の駅に向かいました。
新幹線で京都に向かう途中、関ヶ原は雪で真っ白でした。
車中では厳しい道場生活から開放された思いで
とても穏やかな気持ちになっていました。
なぜ沖先生は黙っておられたのだろうか。
車中ではそのことを考え続けました。
大変不思議かつ正直何か満たされない気持ちがありました。
しかしその4ヶ月後には大学卒業できたこともありゴールデンウィークを利用して
再び沖先生の指導を受けに1週間ほど道場に向かい新たに数多くの体験を積みました。
こうして沖ヨガをきっかけにヨガに興味を持った私はその後、いくつかの
ヨガを学び世界を巡り50年後の今なおヨーガの世界に関わっています。
なぜあの時、沖先生は黙っておられたのだろうか。
この2~3年その意味、意義を自分なりに模索し始め自分なりに理解し始めてきました。
以下その話をいたします。
1) 沈黙-マウナの力
あえて誉めもされず、一喝もされなかったのはいちいち人の評価に左右されるな❗
自分で自分を誉め、また自分で自分を一喝できるように自分が自分の主人公になれなくて
どうするんだ❗との沈黙によるメッセージではなかったか。
沖先生の沈黙には相手にいろいろなことを考えさせる力があったに違いありません。
つまり沈黙の時間的生を作ることでいろいろ潜在意識にたまっている思いを吐き出させ心を掃除する力、昇華する力があったのではないかと。
2)凝視-ダルシャンの力
黙ってただ凝視を続けられたことで沖先生の厳しさ、寛大さ、等ある種の力が
嫌がおうでも目から頭に入りその間、余分な考えや思いが勝手に消えて行くように感じました。
また先生の凝視の力で帰宅してからの日常生活に常に先生が近くにおられるような気がしてメリハリ、困難から逃げない
精神を保つことができました。
3) 教えない教え方の力
沖先生はあえてこうされるだろうという、こちらの思いを遥かに越えたところで全く違った視点から気付きを与えて下さったように思います。
人は自分の思い、考えは決して思うほどには広くない。自分の考えを一度、二度と完全に手放してまっ更な気持ちでいつもことに臨むことが
出来れば何倍も広くいろいろな考えを受け入れることが できるようになる。
このことを教えない教え方で気づかせようとされておられたのではないかと思うのです。
迷う思いを一度、断つのだ❗捨てるのだ❗そして離れるのだ!!️
と断捨離の大切さをあらゆる場面で教えておられた偉大なヨギであったと思います。
このようにして私は沖先生があえて何もおしゃらなかったため自分を固定的に断定的評価することなく
自分について卑下することも慢心することもなく自律的に自主的に事実に基ずいて客観視することがだんだん長い月日をかけて出来るようになったように思うのです。
あの時のわずか3~4分の沈黙凝視の体験が何十年と私の記憶の中で生きる上での課題として生き続けていたように思うのです。
今回の回顧録、長文最後までお読み頂きまして誠にありがとうございました。
橋本光
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