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代表橋本光よりヨーガ便り【7月号後半】
2023-07-05 12:29:31
皆様へ
参加人数は延べ7~8千人だったと聞いています。
3日前にサッチダナンダ師は亡くなったというのです。
こんにちは。
前回に引き続きヨーガ便り7月号後半をお送りします。
お時間あります時にでもご覧頂きましたら幸いです。
皆様の日々のヨーガの取り組みにどこまで役立つかわかりませんが日々、1日1日の過ごし方に何か少しでもお役に立てれば嬉しく思います。
橋本光
******大会の思い出****
大会は三島の本部道場を主に京都の万福寺、名古屋会場、東京会場の3箇所にて約1ヶ月の間、開催されました。
沖先生の人脈を最大限に生かした幅広い講師陣は素晴らしいものでした。
ヨガでは沖正弘先生ご自身、本山博先生、田原豊道先生、サッチダナンダ師、BKSアイエンガー師さらにインドの著名なアユルベーダの医師、宗教家、台湾、韓国からも多数の著名な東洋医学の鍼灸家達。国内からも多数の医師、教育家、食養家等、宗教家等、多くのジャンルから多彩な一流の方達が出演されていました。
いよいよ大会が始まりました。私は通訳のボランティアグループに配属されました。
BKSアイエンガー師の通訳も担当させて頂きました。
通訳グループの中には、その後アイエンガーヨガの日本代表として今も活躍されている
柳生直子さんも同じ通訳チームにおられました。京王プラザでのアイエンガー師の通訳では確かブースに入ってチームで奮闘しておりました。
大会の3年前くらい前にたまたまインドのプーナのアイエンガー道場に1ヶ月通ったことは私に取っては通訳の上で大変役立ったと思っています。
アイエンガー師の思い出として印象的であったことを少しお話させて頂きます。
私が渋谷のサンルートホテルに朝のスケジュール確認の為、宿泊されていた部屋を訪ねた時のことです。
部屋の中で師は前屈のポーズ、パシタモータアーサナをされていました。
私は若気の至りでつい失礼なことをお聞きしました。
アイエンガー先生は毎朝、この基本的なパシタモータアーサナを実践されているのでしょうか。
師は答えられました。そうだ ! この前屈のポーズは
大変基本的なポーズだが1ミリでもさらに前屈できれば、そこは私に取っては未知の未だかつて経験したことの無い世界を経験することになるんだ。
師は毎朝のポーズを初めてのポーズとして捉えられていた事に対してわたしは大変、感動いたしました。
また大会の分科会か何かの場で、わたしは司会進行のお役をいただきました。
ほとんど打ち合わせは無く、手渡されるメモだけを頼りに司会を進行して行くのです。
胃の痛くなることもありましたが今となっては大変得難い貴重な経験をさせて頂いたと思っております。
私のボランティアの範囲は通訳に限られていましたので自分の担当範囲で精一杯で他のセクションのことはあまり記憶していません。
私に取っては世界の旅から帰国して三島の沖先生に挨拶して後、大阪の土佐堀道場の開設、禅ヨガサマーキャンプへの随行、オランダ単身沖ヨガ普及、第1回国際総合ヨガ世界大会と休む間もなく駆け抜けて来たように思います。
やがて約1ヶ月続いた1980年第1回国際総合ヨガ世界大会は初めての大会にも関わらず盛大なる大会として予想以上に成功裡に終わろうとしていました。
きっと将来語り継がれ日本のヨガ史に大きな不滅の足跡を残すことに違いありません。
今こそ様々なヨガの大会、フェスティバルが全国のあちらこちらで開催されるほどヨガが普及しましたが日本の偉大なるヨガのパイオニアとしてご苦労にご苦労を重ねてのヨガの普及に努めて来られた沖先生の偉大なる足跡は決して雨風で吹き消されること無く永遠に輝き残るものと信じて疑いません。
最後に沖先生の言葉を掲げてこのヨーガ便り、沖先生シリーズの最終章を終えさせて頂きたいと思います。
*****俺が30歳の頃ヨガの講演を始めた時の話をしよう******
まず俺は墨汁で白紙に何枚もヨガ講演会の案内掲示文を書いた。
(来たる !! 沖正弘真実のヨガを語る !! )と。
その案内文を会場近くの電信柱に夜貼りに行く。
当日玄関では皆さんを下足番としてお迎えしお一人お一人に頭をさげ皆の靴を預かるわけだ。
下足番を終え袴に着替えたところで皆さんを待たせている部屋に顔を出す。
みなさんは先程の下足番を沖正弘とは思わなかったようでみんなびっくりしていたね。
はじめはこうして1人何役もやってヨガを求める方1人1人を大切にしてヨガの道を説いていた。
このはじめの初々しい気持が大切だ。それはまっさらな汚れなき心だ。
その心をを初一心という。
何事にも通じる心だ。
同じことを繰り返す時も毎回初めてと思ってこの初一心で取り組めばよいんだ。
そして初一心と同時に必要な心がもう一つある。何かやる時にこれが見納めだ。最期と思って事に全身全霊で臨む心のことだ。この心を最期心という。
そして大事なことは何事もこの初一心と最期心をピタッと合わせもって事に臨むんだ。********
まさに沖先生はこの初一心と最期心を一つとして前例の無い国際総合ヨガ世界大会を開催されたに違いありません。(終)
***エピローグ*******
********:世界大会閉会と共に私は大きな転換期を迎えることになり三島の沖ヨガ道場を去り東京に向かい新たなヨガ活動を始めることになったのでした。**********
沖先生には嚴しい課題を良く与えられていましたが今となってはなんと愛情深い先生だったのだろうか、まさに愛の行者であったと思いは尽きません。
最後に国際総合ヨガ世界大会にまつわる時空を超えたちょっと不思議な話しを追記して沖先生との回想記のエピローグとさせて頂きます。
長文最後までお付き合い頂きまして誠にありがとうございました。
*****エピローグ 亡きサッチダナンダ師からのメッセージ******
国際総合ヨガ世界大会から20年経った頃、私は久しぶり25年ぶりに渡米しました。
ヨギバジャンという方のクンダリニーヨガを学ぶためです。
最初にボストンのグルチャラン先生のコースに参加しました。
190cm.100kgを超える偉丈夫な白いターバンを巻いたグルチャラン先生の両手を回しての火の呼吸は部屋中の空気をかき混ぜるような迫力がありました。
火の呼吸の後、マントラを唱える行が始まりました。マントラはサット(至高者)、チット(知恵)、アーナンダ(歓喜)です。皆でサットチットアーナンダを唱えました。グルチャラン師はマントラが終わるや次のような話をされました。
この3つのマントラを続けて唱えるとサッチダナンダとなります。そういえばニューヨークにインテグラルヨーガを創立された世界的に有名なサッチダナンダ師がおられますね。
私は思い出しました。1980年に国際総合ヨガ世界大会にサッチダナンダは沖先生に招かれ通訳の私は少し言葉を交わしたことを思い出しました。
次の日ボストンを出た私と妻の京子は当日コンサルでお世話になっていたS氏の運転でニューヨークに向かいました。
ニューヨークに着いて次の日、電話帳で調べてインテグラル協会にTELしました。何回電話しても誰も出ません。半ばあきらめつつ少しでもお会いしご挨拶したいと思い直接訪しかないとマンハッタンにあるインテグラルヨーガセンターを目指しました。
センターに到着しドアを叩きましたが何回叩いても誰も出ません。諦めて帰ろうかと思いましたがあきらめ切れず鍵穴から中を覗きましたら、中に人が動いているのが見えました。なおもドアを叩きづけましたらついにスタッフらしい女性が開けてくれました。
本日はお休みですか。スミマセン突然訪問しまして。
いえいえ。どうぞ中にお入りください。
中に入れて頂き、
女性の話を聞いて私は驚きました。
本日午後3時からこのセンターで弟子たちだけの厳かな師の追悼瞑想会を開催します。宜しかったら参加されませんか。
私らは一度ホテルに戻り午後3時のサッチダナンダ師の追悼瞑想会に参加させて頂きました。
なんと奇遇な出来事なんだろう。
3日前はちょうどボストンでサッチダナンダのマントラを唱えていた時であった。
追悼瞑想会の後、私はスタッフの方に1980年の国際総合ヨガ世界大会に沖先生がサッチダナンダ師を招待されたこと、その時、たまたま私は通訳のボランティアでサッチダナンダ師にもご挨拶したこと等話しました。
スタッフは笑いながら次のように話して来ました。
サッチダナンダ師の世界ツアーの写真集があります。
日本の写真もあるかも知れませんね。ひょっとしたらあなたも写っているかもしれませんよ。ちょっと待っていてください。写真集取って来ます。2階から戻ってきたスタッフは分厚い写真集を目の前で開いて探してくれました。
あった!!私らは世界大会の舞台の中央に立つサッチダナンダ師と沖正弘先生の写真を見て喜びの声を上げたのです。
さらに驚く事にその写真の左端には司会をしている私がギリギリ写っているのです。
なんと不思議な出来事だろう。
不思議な形で20年ぶりにサッチダナンダ師に再会したのです。
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今こうして20年前の不思議な出来事を思い出しながら、さらにそこから20年遡る世界大会を回想しています。
もうあの偉大なるヨギ、沖先生、サッチダナンダ師、BKSアイエンガー師はこの世にはおられない。
きっと天からヨガを学ぶ者達に大いなる力を送ってくださっている野ではないだろうか。
あの時居合わせるご縁を頂いた私らに出来ることは一体何であろうか。
あるとすればそれはただ1つ。
あの頃の体験を記憶が働く限り後に続く方達に語り継いで行くことではないだろうか。
橋本光