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代表橋本光よりヨーガ便り【2024年新年号】
2024-01-16 08:46:57
皆さまへ
新年明けましておめでとうございます。
年が明け、日日が経ち、正月気分も遠退きましたが皆様お変わりありませんか。
能登の被災者の方々の大変さはいかばかりかと思うにつれ復興が速やかに進み1日も早く被災者の方が安心出来る生活に戻られますよう祈り続けたいと思います。
さて今年も1人でも多くの方に私が学んできたヨーガの真意をお伝えしたくヨーガ便りを皆様に届けさせて頂きます。
今月の新年号では先月に引き続き沖正弘先生にご登壇頂きます。
書籍は沖正弘編著、ヨガ叢書第3巻(霞が関書房刊)、(人間をつくる p11)の
***人間心の育成*****[意識的に生活せよ]です。
本年もヨーガ便り続けて行くつもりですので是非、ご覧頂き、またご感想等いただければなお嬉しく思います。
橋本光
ヨーガ便り新年号
****意識的に生活せよ*****
*****人間心と動物心の違いの第1は何かといいますと、人間は意識的生活者になりうるということです。
動物は意識的生活者ではありません。動物は無意識的生存者です。ただ生きているだけです。
人間であるためには、意識的な生活をしなければいけません。
ですから宇宙は、人間が無意識的な生存者であることを許しません。
癖、習慣性、執着、そういうような私達を固定してしまうところのものは無意識的なものです。ですから慣れた生活をしていたら、それは動物です。宇宙はその時、人間への脱皮運動として、私達の心身に苦しみというものを与えて、忠告してくださるのです。
私達は意識的な生活をするために、知性を開発しなければなりません。そのために知性開発が必要なのです。
いくら意識的な生活をしようと思ったとしても、何も知らなければ、意識的になるわけにはいきません。
例えば、足の親指に力を入れて歩くのだという簡単なことでも、それを知らなければ異常状態で歩いてしまいます。
それが足の親指に力を入れて
歩くのが正しい歩き方なのだということを聞いて、初めて意識的に足の親指に力を入れる生活ができるわけです。何故意識的な生活が必要であるかといいますと、意識的に自己訓練したもののみが、自己コントロールできるからです。
[わかっちゃいるけどやめられない]という言葉があります。
何故わかっていてやめられないのでしょうか。それは無意識にやっていて、無意識に身についたものだからです。
意志というのは意識です。よく意志を強固に持てといいます。いくら意識的に意志を強固にしようと思っても、それでコントロールできるでしょうか。できません。
ですから1つ1つ過去に身についたものを、今度は意識的に改造していくことを考えなければいけないのです。
意識的に行って意志でもって自己自身の心身をコントロールできる能力を身に付けるのです。そうしなければ、人間的生活者とは言えません。
*****ヨガ叢書第3巻より****
****50年前に初めて私が沖ヨガ道場に入門した際、沖先生はあらゆる場面で身体面、精神面また生活面で徹底して意識的であることの大切さを教えてくださいました。
(意識的である)とは2つの意味があります。
1つは自分の意志で明瞭な意識
を持って、その価値、意義等を理解しつつ意識的に取り組むという意味で、能動的意識化と考えれば良いと思います。
もう一つの意識的であるとは今、やっていること、あるいは今のありのままの状態をありのままに観察することを意味します。
ここで今回、沖先生が説かれた(意識的である)ことは両者の意味を含みますが、どちらかといえば前者が6から7割、後者が3〜4割の比率で解説されていたと思います。
もちろん日々の生活において両者を併せ持つのがより人を成長させることと思います。
さて話はもとに戻ります。
特に、身体面では嫌がおうでも意識的に取り組まざるを得ないような身体訓練を道場で沖先生は指導されていました。
気を抜くと怪我をする、真剣に取り組まなければならない、全身を1つとした強化法などは意識的に行わざるを得ない素晴らしい訓練でした。
力の入れ方、抜き方なども意識的に行わなければ怪我をしますし、また身につきません。
天井の高さくらいから飛び降りる訓練では意識的に強くハッーと息を吐かねば、またできるだけ身体の力を意識的に抜かねば怪我をします。
下で竹刀を持って立っておられる沖先生の飛び降りろーという声で1人1人順番に気合を込めてハッーと吐く息で天井くらいの高さから床まで飛び降りるのでした。
沖先生の指導では意識的に行うためか、また皆にも゙気合いが入る為なのか怪我した者を゙私は見たことはありませんでした。
また歩く時、走る時の足裏への体重の乗せ方、腕の振り方、重心の取り方など1つ1つ動きの中での姿勢、呼吸、意識の運びなど全て意識的に行うよう厳しく指導されていました。
食事の際もその時その時に自分に必要な食べ物の種類と量を感じ取れるように意識的に食べる食べ方として食事の際、栄養摂取の誓いを唱えるなどを教えてくださいました。
また生活面では朝早くから夜遅くまで、毎日のスケジュールは決まっているようで決まっていません。沖先生の指示により、しょっちゅうスケジュールは突然変更になるのでした。
なぜ、スケジュールはしょっちゅう変わるのかその時、私は大変不思議に思いました。
その内、その意味がだんだん分かってきました。
その理由とは、あらゆる状況に瞬時に適応できる適応能力を高める為という理由なのです。
いつ何が起こるか分からないのが人生だ。いついかなる時にも腹を据えて力を抜いて心身共に正しい状態でモノゴトに当たるのだ!!
今もあの時の気合に溢れた沖先生の声が聞こえて来るようです。
ではいついかなる時にも腹を据えた生き方が出来るよう、すなわち適応能力を高める為にはどうすればよろしいのでしょうか。
その答えがやはり日々、生活の中で一瞬一瞬、意識的に生活するということなのです。
予想外のスケジュールに変わった際にもいつも意識的にモノゴトに対応する訓練を積み重ねておきますと、慌てること無く、対象になることに振り回されること無く、冷静に、過分な不安、恐れに引っかかたり、とらわれること無く、いつ力を抜いて、いつ集中すれば良いのか等、落ち着いてちょうど良いように対応できるようになるのです。
つまり意識的であることで、いかなる時にも正しい身構え、心構え、生活構えで対応でき、さらにピタッとその状況に適応出来るようになるというのです。
今の自分がもし無意識的にまたは機械的に生きていると自覚されたならそのような生き方を気付いた時から段階的にでも断ち切っていけば良いのです。
無意識的生き方の積み重ねが癖、習慣性を形成し、引いてはその癖、習慣性、不自然性が身体面、精神面、生活面に日々カルマ(業)を形成していくと沖先生は説いておられたのです。
新しく生まれ変わるとはその都度、癖、習慣性という偏り、不自然性から自由になり、開放されている生き方を指していることを意味するのです。
その為に沖先生は意識的に生きることの大切を説かれたのです。
こんにち世界はまさに激動期に突入し明日は何が起こるか全く予想出来なくなってきています。
何を信じて何を拠り所に生きて行けば良いのか分からない今の時代こそ、人間本来の意識的生活者としての生き方をそれこそ意識的に取リくんで行くことが大切かと思います。
今回取り上げさせて頂いた、この意識的に生きる大切さの教えは人生の達人であった沖先生からの数数の箴言、つまり後へ続く者への遺言のひとつであったように思うのです。
長文最後まで読んで頂きありがとうございました。
橋本光
新年明けましておめでとうございます。
年が明け、日日が経ち、正月気分も遠退きましたが皆様お変わりありませんか。
能登の被災者の方々の大変さはいかばかりかと思うにつれ復興が速やかに進み1日も早く被災者の方が安心出来る生活に戻られますよう祈り続けたいと思います。
さて今年も1人でも多くの方に私が学んできたヨーガの真意をお伝えしたくヨーガ便りを皆様に届けさせて頂きます。
今月の新年号では先月に引き続き沖正弘先生にご登壇頂きます。
書籍は沖正弘編著、ヨガ叢書第3巻(霞が関書房刊)、(人間をつくる p11)の
***人間心の育成*****[意識的に生活せよ]です。
本年もヨーガ便り続けて行くつもりですので是非、ご覧頂き、またご感想等いただければなお嬉しく思います。
橋本光
ヨーガ便り新年号
****意識的に生活せよ*****
*****人間心と動物心の違いの第1は何かといいますと、人間は意識的生活者になりうるということです。
動物は意識的生活者ではありません。動物は無意識的生存者です。ただ生きているだけです。
人間であるためには、意識的な生活をしなければいけません。
ですから宇宙は、人間が無意識的な生存者であることを許しません。
癖、習慣性、執着、そういうような私達を固定してしまうところのものは無意識的なものです。ですから慣れた生活をしていたら、それは動物です。宇宙はその時、人間への脱皮運動として、私達の心身に苦しみというものを与えて、忠告してくださるのです。
私達は意識的な生活をするために、知性を開発しなければなりません。そのために知性開発が必要なのです。
いくら意識的な生活をしようと思ったとしても、何も知らなければ、意識的になるわけにはいきません。
例えば、足の親指に力を入れて歩くのだという簡単なことでも、それを知らなければ異常状態で歩いてしまいます。
それが足の親指に力を入れて
歩くのが正しい歩き方なのだということを聞いて、初めて意識的に足の親指に力を入れる生活ができるわけです。何故意識的な生活が必要であるかといいますと、意識的に自己訓練したもののみが、自己コントロールできるからです。
[わかっちゃいるけどやめられない]という言葉があります。
何故わかっていてやめられないのでしょうか。それは無意識にやっていて、無意識に身についたものだからです。
意志というのは意識です。よく意志を強固に持てといいます。いくら意識的に意志を強固にしようと思っても、それでコントロールできるでしょうか。できません。
ですから1つ1つ過去に身についたものを、今度は意識的に改造していくことを考えなければいけないのです。
意識的に行って意志でもって自己自身の心身をコントロールできる能力を身に付けるのです。そうしなければ、人間的生活者とは言えません。
*****ヨガ叢書第3巻より****
****50年前に初めて私が沖ヨガ道場に入門した際、沖先生はあらゆる場面で身体面、精神面また生活面で徹底して意識的であることの大切さを教えてくださいました。
(意識的である)とは2つの意味があります。
1つは自分の意志で明瞭な意識
を持って、その価値、意義等を理解しつつ意識的に取り組むという意味で、能動的意識化と考えれば良いと思います。
もう一つの意識的であるとは今、やっていること、あるいは今のありのままの状態をありのままに観察することを意味します。
ここで今回、沖先生が説かれた(意識的である)ことは両者の意味を含みますが、どちらかといえば前者が6から7割、後者が3〜4割の比率で解説されていたと思います。
もちろん日々の生活において両者を併せ持つのがより人を成長させることと思います。
さて話はもとに戻ります。
特に、身体面では嫌がおうでも意識的に取り組まざるを得ないような身体訓練を道場で沖先生は指導されていました。
気を抜くと怪我をする、真剣に取り組まなければならない、全身を1つとした強化法などは意識的に行わざるを得ない素晴らしい訓練でした。
力の入れ方、抜き方なども意識的に行わなければ怪我をしますし、また身につきません。
天井の高さくらいから飛び降りる訓練では意識的に強くハッーと息を吐かねば、またできるだけ身体の力を意識的に抜かねば怪我をします。
下で竹刀を持って立っておられる沖先生の飛び降りろーという声で1人1人順番に気合を込めてハッーと吐く息で天井くらいの高さから床まで飛び降りるのでした。
沖先生の指導では意識的に行うためか、また皆にも゙気合いが入る為なのか怪我した者を゙私は見たことはありませんでした。
また歩く時、走る時の足裏への体重の乗せ方、腕の振り方、重心の取り方など1つ1つ動きの中での姿勢、呼吸、意識の運びなど全て意識的に行うよう厳しく指導されていました。
食事の際もその時その時に自分に必要な食べ物の種類と量を感じ取れるように意識的に食べる食べ方として食事の際、栄養摂取の誓いを唱えるなどを教えてくださいました。
また生活面では朝早くから夜遅くまで、毎日のスケジュールは決まっているようで決まっていません。沖先生の指示により、しょっちゅうスケジュールは突然変更になるのでした。
なぜ、スケジュールはしょっちゅう変わるのかその時、私は大変不思議に思いました。
その内、その意味がだんだん分かってきました。
その理由とは、あらゆる状況に瞬時に適応できる適応能力を高める為という理由なのです。
いつ何が起こるか分からないのが人生だ。いついかなる時にも腹を据えて力を抜いて心身共に正しい状態でモノゴトに当たるのだ!!
今もあの時の気合に溢れた沖先生の声が聞こえて来るようです。
ではいついかなる時にも腹を据えた生き方が出来るよう、すなわち適応能力を高める為にはどうすればよろしいのでしょうか。
その答えがやはり日々、生活の中で一瞬一瞬、意識的に生活するということなのです。
予想外のスケジュールに変わった際にもいつも意識的にモノゴトに対応する訓練を積み重ねておきますと、慌てること無く、対象になることに振り回されること無く、冷静に、過分な不安、恐れに引っかかたり、とらわれること無く、いつ力を抜いて、いつ集中すれば良いのか等、落ち着いてちょうど良いように対応できるようになるのです。
つまり意識的であることで、いかなる時にも正しい身構え、心構え、生活構えで対応でき、さらにピタッとその状況に適応出来るようになるというのです。
今の自分がもし無意識的にまたは機械的に生きていると自覚されたならそのような生き方を気付いた時から段階的にでも断ち切っていけば良いのです。
無意識的生き方の積み重ねが癖、習慣性を形成し、引いてはその癖、習慣性、不自然性が身体面、精神面、生活面に日々カルマ(業)を形成していくと沖先生は説いておられたのです。
新しく生まれ変わるとはその都度、癖、習慣性という偏り、不自然性から自由になり、開放されている生き方を指していることを意味するのです。
その為に沖先生は意識的に生きることの大切を説かれたのです。
こんにち世界はまさに激動期に突入し明日は何が起こるか全く予想出来なくなってきています。
何を信じて何を拠り所に生きて行けば良いのか分からない今の時代こそ、人間本来の意識的生活者としての生き方をそれこそ意識的に取リくんで行くことが大切かと思います。
今回取り上げさせて頂いた、この意識的に生きる大切さの教えは人生の達人であった沖先生からの数数の箴言、つまり後へ続く者への遺言のひとつであったように思うのです。
長文最後まで読んで頂きありがとうございました。
橋本光